日本語・英語にかかわらず、心の持ちようや人生に対する考え方を刺激してくれる本に出会うのはうれしいものです。
特に英語を学ぶことに関して共感できる部分があった2冊をご紹介します。
やはり英語は語順が大事であり、それを脳に刻み込んで初めて「エイリアン語のごとき英語を同じ人類の言語としてあつかう準備が整う」という表現に膝を打ちました。
目次
宮下奈都著「羊と鋼の森」
北海道でピアノ調律師として働く青年、外村(とむら)の成長を描く物語です。不器用だけれど自分が目指すものに向かってひたすらこつこつ努力する外村の生き方が印象的でした。
才能について
調律師の訓練学校を卒業し、ピアノ調律師として働き始めた外村が先輩・柳に質問する場面。
「調律にも、才能が必要なんじゃないでしょうか」
思い切って聞くと、柳さんは顔をこちらへ向けた。
「そりゃあ、才能も必要に決まってるじゃないか」
やっぱり、と思う。必要だと言われて逆にほっとしたくらいだ。今はまだそのときじゃない。才能が試される段階にさえ、僕はまだ到達していない。
(中略)
「才能ってのはさ、ものすごく好きだっていう気持ちなんじゃないか。どんなことがあっても、そこから離れられない執念とか、闘志とか、そういうものと似てる何か。俺はそう思うことにしてるよ」
柳さんが静かに言った。
(太字はNaoko:以下引用内の太字も同様)
この柳の言葉、ぐっときましたね。人間だれしも本を読みながら自分の人生を投影してしまうもの。だから、自分にも当てはまる部分があると心が揺さぶられます。
これ、英語に対する私の気持ちに似ている、と思いました。英語の才能があるかどうかは分かりません。でも、ものすごく好きということは確かです。
自分に自信が持てる日なんて一生こないだろうけど、大好きな映画やドラマを使って英語の情報を発信することが私の喜びですね。
小学校時代のピアノと母の思い出

さらにこの本は、私にピアノの思い出を蘇らせる本でした。
幼稚園から小学校6年生までピアノを習っていました。最初の数年は楽しかったような気がします。新しい曲をうまく弾けるようになったときは、やはりうれしかったですしね。
しかし「将来ピアニストになってほしい」という母親の期待とプレッシャーが大きかったです。毎日2〜3時間の練習、指をケガするようなスポーツは厳禁など、ピアノをやっていることがどんどん苦痛になってきました。でも母は「Naokoには才能がある」と信じて高いレッスン料を払い、しかもグランドピアノまで買ってくれたのです。
小学生とはいえ、「自分はピアニストの器じゃない」と心の中ではわかっていました。弾きながら魂をこめることができないのです。心から楽しいと思えない。上の引用にある柳の言葉を借りれば、私はピアノに対して「ものすごく好きという気持ち」が持てなかったのです。
だから小学校卒業と同時にやめました。母をがっかりさせてしまった罪悪感は消えません。
でも、ピアノをやめて中学生になり、英語と映画に出会って夢中になったのですから、何がどう転ぶかわかりません。
大人になった今、時々ピアノを弾いてみることがあります。やめたのは35年以上も前なのに、指は覚えていて昔の曲を弾けてしまうのです。何事も、ひたすら地道に練習すると体にしみついて離れないんだな、と実感しました。
まさに英語習得の道と同じです!

映画化されています
映画もなかなかぐっときますよ。
森絵都著「みかづき」
この本は「教える」ということについて深く考えさせられました。
戦後、千葉で小学校の用務員をしていた吾郎。授業についていけない子供たちに、用務員室で勉強を教えるようになります。用務員室での補習が個人塾になり、そして大きな規模の塾を経営するようになる、という物語。
知りたいと思う心を引き出す
吾郎が、塾の教師としてスカウトしてきた青年に言うセリフ。
「君も知ってのとおり、うちの理念は『自主性を育む』だ。近ごろ流行りのスパルダ塾とはちがって、知識のつめこみよりも子どもたちの知的探究心を引きだすほうに重きを置いている。言うほど簡単じゃないけど、やり甲斐はあるよ。塾の教師はね、はまる仕事なんだ」
この「知的探究心を引きだす」という部分。あ、面白そうだな、もっと知りたいな、と思う気持ちを刺激するのは、教える側の大事な役目だと思います。
子どものころは知的探究心のアンテナがまだ芽を出したばかり。その小さな芽に水と栄養を与えて伸ばしてくれる存在に出会えるかどうかで、その子の人生には大きな違いが出るはずです。
親がすべきことは一つだけ
吾郎の義母、頼子(よりこ)が吾郎に言うセリフ。
「どんな子であれ、親がすべきは一つよ。人生は生きる価値があるってことを、自分の人生をもって教えるだけ」
これ、ジーンと胸に響きました。
子どものためと思って、あれやこれや手を焼くことが多かった私ですが、娘2人が成長するにつれて、一歩引いて見守るようになりました。
「あなたたちを産んで母親になったことが、人生最大の試練であると同時に喜びでもある」ということは伝えておきたいです。
やっぱり英語のキモは語順!
吾郎の妻、千明が娘とその友人二人に英語の基礎を教えるシーン。
この夜、千明が徹底して三人に課したのは、一般動詞とbe動詞の差別化を意識した単語のならべかえ問題だった。結局のところ、英語理解の鍵は文章を組みたてる力、つまりは作文能力にある。主語、動詞、目的語や補語、場所や日時などの付帯条件。これらの順序をしっかり脳に彫りつけて初めて、エイリアン語のごとき英語を同じ人類の言語としてあつかう準備が整うのだ。逆に、そこがあやふやなまま複雑な現在完了形や使役動詞をいくら教えたところで使いこなせるわけがない。エンジンのない車に給油をするようなもので、機能しないままパンクするのが関の山だ。
「エイリアン語のごとき英語」というのが実に言い得て妙です(笑)。
英語とのつきあいが長くなってくると最初に英語に出会ったときのことは忘れてしまいがち。「英語は語順に注意」というのは本当に大事なポイントです。
とことん考える
悩みをかかえた孫の一郎に、吾郎が言うセリフ。
「いいや、遠山啓という数学者も言っていた。ダーウィンもアインシュタインもメンデレーエフも、けっして頭の回転が速い人たちではなかった。その代わり、ものごとを徹底的に考える人たちだった、と」
ぼんやり考えることは多くても、意識して「徹底的に考える」ことはそう簡単ではありません。
やることがいっぱいあって、それをこなすだけで終わってしまうことが多い毎日。でもこのブログを書くことで、少し立ち止まって心の中を整理することができます。それが私にとっては「考える」こと。
日本語と英語の区別なく、自分の考えを言葉にするということがいかに大切か、わかり始めた気がします。
足りないからこそ努力をする
自分の本の出版記念パーティーで、吾郎がスピーチをします。
「妻はこんな話をしました。(中略)常に何かが欠けている三日月。教育も自分と同様、そのようなものであるかもしれない。欠けている自覚があればこそ、人は満ちよう、満ちようと研鑽をつむのかもしれない、と」
まったくそのとおりだ、と思いました。上を目指しつつも、どこかで折り合いをつけなくてはならないことはしょっちゅうあります。
私の場合は「日本語で言いたいことを、ニュアンスもすべてばっちり英語で伝えられるようになりたい」という野望があります(笑)。その野望が満たされることはないかもしれないけど、とにかく日々の努力だけは怠らないようにしています。
これまた映画化されています
私はまだ観ていませんが、この本も映画化されています!
最後に
日本語の本を紹介するのは初めてでしたが、いかがでしたか?
日本語・英語にかかわらず、心の持ちようや人生に対する考え方を刺激してくれる本に出会うのはうれしいものです。
私の心を震わせる本に出会ったら、また紹介しますね!
Have a wonderful day!